<こーたろ怪談さんによる朗読音声>
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<本文>
「人間って、何だろう?」
ウツロがそう呟いたとき、アクタは気がついていないふりをしながら、また始まったかと内心そわそわした。弟分の悪癖が発動したからだ。
穏やかな春の昼下がり、外界から隔絶された山の奥深くの隠れ里。
杉林に囲まれたその中の、ちっぽけなネギ畑の片隅で。
二人の少年がそこで、言葉を発するのも忘れるくらい、せっせとネギを引っこ抜いている。一人は名をウツロ、もう一人はアクタといった。
年齢は共に十六歳だが、彼らは自分の歳など数えたこともないし、そもそも知らない。生年月日がわからないのだ。 西日も次第に強くなってきて、二人が身に纏う紺色の作務衣や、ほっかむりにしている白い手ぬぐい、あるいはゴム製の長靴や、その中の足袋だって、温室のように蒸れて、すっかり汗だくになってきている。
「何をもって、人間といえるんだろうか?」
ウツロの悪癖、それは彼が思索と自称するものだ。
この少年は哲学書を愛読し、その思想について考えをめぐらせることを趣味としている。
もっとも彼に言わせれば、それは趣味ではなく、人間になるため、らしいのだが。
「何が人間を、人間たらしめるんだろうか?」
ウツロとアクタは孤児だった。
二人が赤ん坊のとき、それぞれ別な場所に捨てられていたところを、この隠れ里の主が発見し、拾い上げ、ここまで育て上げた。そう、聞かされている。
親から捨てられたという過酷な現実を、二人は背負っている。
特にウツロはその現実に耐えきれず、自分に責任があるのではないかと、自問自答を繰り返している。
俺は親に捨てられた。
こんなことが、人間にできるはずがない。
そうだ、俺は、人間じゃないんだ。
醜い、おぞましい……
そう、毒虫のような存在なんだ、と。
それゆえ、古今東西の哲学者・思想家の知恵をよりどころとし、つねに自分という存在について、問いかけつづけているのだ。それは考えているというよりも、隙あらば襲いかかってくる自己否定の衝動と、戦うためなのであった。
「人間が自身を克服できる存在だと仮定するのなら」
「ウツロ」
「その行為が人間的な生命活動といえるのであって」
「ウツロっ」
「それをたゆまず続けることで初めて、真の人間といえるんじゃないだろうか」
「ウツロっ!」
果てしない思索の連鎖に陥っているウツロへ向け、アクタは手にした一本のネギを、頑丈な肩の力と腕のスナップを利かせて、手裏剣のように投げつけた。
大気を切り裂くほどの速さと鋭さで飛んできたそれを、ウツロは片手を少し動かして、たやすくつかみ取った。たかがネギとはいえ、直撃していれば頭蓋骨にひびくらいは入っていただろう。だがウツロもアクタも、いたって涼しい顔をしている。
屹立する杉林は変わらず、そよ風にさざめいている。こんな彼らのほほえましい日常を、春の陽気もにこにこと笑っているようだ。
「アクタ、いまいいところなんだ。邪魔をしないでおくれよ」
ほおっつらを膨らませたウツロに、アクタは仏頂面で応酬する。
「催眠術はその辺にしておけ。こんなところで寝落ちしたら、ネギの肥やしになっちまうだろ?」
「うまい表現だね」
「ほめてねえだろ?」
「うん」
アクタは柔らかい意思表示をしてみせたが、ウツロに軽くあしらわれた。
ウツロの思索癖はいまに始まったことではないとはいえ、アクタにとっては読経をひたすら聞かされているようなものである。悪気など毛頭ないことは重々承知だったが、アクタにとってはこれが大きな心配の種なのだった。
「お前がこの世で一番好きな単語を発表してやろうか? 『人間』だ、そうだろ?」
低く野太い、芯の通ったアクタの言葉に、ウツロは驚いた様子だ。
長身のアクタに対し、首ひとつぶんほど背の低い彼は、かがんだ体勢からゆっくりと顔を上げ、目線を合わせた。
「アクタ」
「なんだ?」
「そこまで、俺のことを、わかっていてくれたなんて……」
「やめろ、勘違いするだろ」
「違うの?」
「違わねえけど、違う」
「何それ? 矛盾してるよ。誰の思想かな?」
「お前は……」
アクタの態度にウツロは困惑気味だ。
ウツロの心境を、アクタはじゅうぶんすぎるほど把握している。だから余計なことを考えすぎる危険性を、かねてから示唆してきた。だが当のウツロは、その配慮に気づきつつ、それでも思索をやめられないのだ。それほどのトラウマを彼はかかえているのである。
ウツロは視線を落として、また何か考えこんでいる。
「人間とは何だろう、アクタ。俺はずっと、それを考えているんだ。何をもって人間といえるのか。何が人間を人間たらしめるのか……」
「難しすぎるんだよ、お前の『人間論』は」
「そうかな。もし、俺がこの問いかけに解答を見出したとき、俺は、人間になれるような気がするんだ……」
こんな不条理があるだろうか?
彼は自分が人間ですらないと思い込んでいるのだ。
アクタも同じ境遇なので明かしてこそいないが、俺の存在は間違っている、俺は間違って生まれてきたんだとさえ考えてしまうのだ。
理不尽にもほどがある。
いったい彼が何をしたというのか?
あるいは幸せに生きることだって、できたはずなのに。
自己否定がウツロを食い殺す。
精神に巣食う魔物が、彼を破滅へ導こうとする。
それがどれほどの苦痛であろうか?
ウツロの顔が苦悶にゆがんでくる。アクタは見ていられなかった。
どうしてこんなに苦しまなければならないのか?
お前は何も悪くなんかないのに。
仕方ねえなと、彼は一つの決意を固めた。
ウツロは顔を伏せて落ちこんでいる。
フッと、気配を感じて――
むぎゅー
顔を上げた彼のほほを、アクタは真横に引っぱった。
ゴムのように伸びた顔面を、アクタの鉄面皮がのぞいている。
「にゃんだよ、アクタ」
アクタがひょいと手を放すと、ウツロのほっぺたは復元力にしたがって、ポヨンと元に戻る。
「俺で遊ばないでよ」
いぶかるウツロに、アクタは相変わらずの能面顔だ。
彼は一呼吸してゆっくりと、間を置きながら語り出す。
「なあウツロ、俺らは生きてるだろ? だから人間なんだ。それでいいじゃねえか。あんま難しいこと考えんな」
一つ間違えれば、逆にウツロを傷つけてしまうかもしれない。しかし、危険な状況でもある。アクタは考えに考え、最大級の賭けにおよんだのだ。
ウツロは口を一文字に結んで、難しい顔をしている。
アクタはハラハラするあまり、冷汗が出そうになった。
「……生きてるだけでいい、か。うーむ……」
「納得できねえか?」
「人間は、難しい……」
ウツロは例によって考え込んではいるものの、どこか頭の中が晴れていくのを感じた。それを感じ取ったアクタは、やっと胸を撫で下ろすことができた。
「いらんことを考えすぎるのはお前の悪癖だぞ。俺みたく頭をパーにしろ」
「それ、言っててつらくないか?」
「どうせ俺はパッパラパー助くんだよ」
「なんだ、それ」
ウツロの顔が緩んだのを確認して、アクタはようやく笑顔を見せた。
この場はなんとかやり過ごすことができたが、一事が万事である。
今後も気が抜けない。
だが、俺がやらずに、いったい誰がこいつを支えるのか?
そう、自分に言いきかせた。
兄貴分も楽じゃねえぜ。
アクタは体の力が抜けていくのを、この憎めない弟分に悟られないよう、ただ笑い続けた。