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東京都と神奈川県の辺境に位置する山脈地帯。
とびきり標高の高いところの一角をすっぽり削り取って、この隠れ里は造られていた。ここがウツロとアクタの『故郷』である。
彼らが作業をしている畑は、隠れ里にある小さな日本家屋に併設されたもので、ここでの生活に必要な食料はほぼ、その収穫物でまかなわれている。
家のほうは屋敷というよりも、大きめの庵といった感じだ。
長方形の母屋は前座敷と奥座敷に分かれていて、そこから直角に折れる渡り廊下の向こうに『はなれ』、そしてさらに直角に頑丈な塀が建てられている。
上から見ると、『コの字』の形になっているわけだ。
その中には簡素ではあるが庭園、植え込みの松や四季折々の花々、石燈籠や錦鯉の泳ぐ池などが設置されている。
ここは空からの目視では死角になるよう設計されていて、地中にはソナーなどの音波、GPSなどの電磁波を誤認識させるシステムが組み込まれている。
端からはただの山にしか見えないというわけだ。
隠れ里の主は傭兵上がりの殺し屋で、暗殺の請負で生計を立てている。
ウツロとアクタをこれまで養ってきたのは、自分の暗殺稼業の後継者に据えるためであり、実際に二人は、その方法を徹底的に叩き込まれてきた。
さまざまな武器・暗器の使用方法から古今東西の体術、果ては諜報の極意から実戦における戦略の立て方まで。
人間を殺傷するために必要な技術の多くを教育されたのである。
次第に傾いてくる太陽の角度から、二人はそろそろ夕刻であることを意識した。
「ウツロ、日が暮れるぞ」
「うん」
「腹あ、減ったな」
「うん、俺もだ。でも、もう少しで終わるよ」
アクタは手を止め、天を仰ぎながら額をぬぐっているが、ウツロは会話をしながらも、せっせとネギを引っこ抜いている。
里へと近づいてくる気配を、彼らは少し前から感じ取っていた。
そしてそれが、自分たちの育ての親、似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)であることも。
「ウツロ、お師匠様が来る。急ぐぞ」
「いま、蛭の背中の辺りだ。この歩みなら、あと三十分はかかる」
「夕餉の準備をしなきゃならんだろ?」
「今日は差し入れがあるみたいだよ。一人分の携行食にしては強すぎる」
「お前、においまでわかるのか?」
「こっちはいま、風下だからね」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
『蛭の背中』とは、隠れ里からだいぶ山を下った渓谷沿いの難所を指し、盛り上がった土壌がすっかり湿って苔むしていることから、彼らだけに通じる暗号として用いられている言葉である。
そんな場所の状況をたちどころに言い当てる獣のような嗅覚に、アクタは驚いて呆気に取られている。
その態度にウツロ当人は、不思議そうなまなざしを送った。
気づかないうちに成長を続けているこの憎めない弟分の存在に、アクタはポカンと開き気味だった口をスッと締め、控えめに破顔した。
「どうかした?」
「なんでもねえ。ほれ、仕事仕事」
「変なの……」
ウツロとアクタがそれぞれ最後の一束をギュッと結び、大きく伸びをして一息ついたところへ、その男は現れた。
杉の大木が作る並木の、人一人がやっと通り抜けられるほどの間隙。
木漏れ日も弱まってきて、すっかりぼやけているその奥から、獣道を通り抜けて姿を見せるゆがんだ蜃気楼。
それは黄昏の闇を背負ってなお暗い、黒炎のような。
彼こそウツロとアクタの育ての親である殺し屋、似嵐鏡月その人である。
群青色のストールから、ほぼ白髪だが中年としては端正な顔がのぞいている。
藍色の羽織と着流しの下には、筋肉細胞を爆縮したような、屈強極まる体躯を隠してある。
ただでさえ豪奢に見えるが、これでも着痩せしているのだ。
腰にはマルエージング鋼製の愛刀・黒彼岸(くろひがん)を差している。
斬るというよりは『砕く』ことに主眼を置く大業物だ。
軍靴の仕様に改造した黒色のロングブーツで大地を重く踏みしめながら、彼は二人の前まで歩み寄ってきた。
その右手には風呂敷包みを引っ提げている。
ウツロの予見どおり、その中には三人分の夕食が納められていた。
「お帰りなさいませ、お師匠様」
ウツロとアクタはすぐさま片膝をついて、その男の前にかしずいた。
「せいが出るじゃないか、二人とも」
ウネの横いっぱいに結束されたネギの列を一瞥して、水晶の帯留めをいじりながら、似嵐鏡月は満足げな表情を浮かべた。
同時に彼はその状況から、小脇に抱えている食事の存在を悟られていたことに気がついた。
「ウツロ、わしの差し入れを嗅ぎ当てたな?」
「ご無礼をお許しください、お師匠様」
ウツロはハッとした。
彼は心のどこかに、自分の成長をほめてもらいたいという願望があった。
だからアクタにも、晩の支度はしないよう促したのだ。
アクタもそれに感づいていたから、あえて反対はしなかった。
しかしウツロは、この親代わりの殺し屋を前にして、突如自責の念に駆られた。
小賢しい承認欲求をさらし、自分を育んでくれた尊い存在を、不快な気分にさせてしまったのではないかと。
お師匠様がそんなことをするはずがないと、彼は重々理解している。
しかしどこかで、自分を否定するのではないかという恐怖が芽生え、それは決壊寸前のダムの水のように緩徐として、しかし十二分の重量感を持ってあふれ出てきた。
お師匠様に無礼を働いたと考えているのか、それとも自分の保身のことしか考えていないのか、それすらもわからなくなってきた。
頭が混乱する、思考の堂々巡りだ。
ウツロはただただ平伏して、似嵐鏡月に黙して許しを請うた。
しかしそこは、いやしくも育ての親。
似嵐鏡月本人は、ウツロの複雑な胸中をすぐに察し、口もとを緩めてみせた。
「よいよい、わしはほめているのだ。お前のその鋭敏な嗅覚、いや、嗅覚だけではない。五感のすべてが突出して優れている。しかも日に日にその鋭さを増しているな? それがどれほどわしにとって有益であるか。ウツロ、お前の存在は本当に心強いぞ」
ウツロはグッと拳を握った。
俺はなんて最低なんだ。
心の底からそう思った。
大恩あるお師匠様を煩わせた挙句、あらぬ疑いまで持ってしまった。
俺はつくづく最低だ。
恥ずかしい、この世に存在しているという事実が。
可能であるならば、いますぐ消えてしまいたい。
俺はこの世に、存在してはならないんだ。
彼はいよいよ思考の泥沼へ。
その鈍く重い深みへとはまり込んでいく。
落ちる先は自己否定という名の深淵。
たどり着くことのない奈落へと。
「頭を上げてくれ、ウツロ。アクタもだ」
ウツロは反射的に顔を上げた。
似嵐鏡月は跪いて、ウツロに目線を合わせていた。
その顔には温かい笑みがたたえられている。
「あ……」
ウツロは喉の奥から、嗚咽にも似た声を漏らした。
似嵐鏡月はそっと、ウツロの頭に手を当てる。
「ウツロ、お前は心根の良い子だ。それゆえ、そのように自分を責めてしまうのだね? 恥じることなど何もないのだ。それがお前の個性なのだから」
師を見つめるまなざしが濁る。
「う、お師匠様……」
アクタも気丈を装ってはいるが、そのまなじりはにじんでいる。
「ウツロ、アクタ。何があろうとお前たちは、わしにとってかけがえのない存在だ。たとえ天が裂け、地が割れるようなことがあっても、お前たちを否定することなど、あるはずがない。それだけはどうか、わかってほしいのだ」
似嵐鏡月は身を寄せ、ウツロとアクタを両腕で抱え込む。
彼らはしばし、伝わってくるその温もりを享受した。
「よし、もう大丈夫だな。ウツロ、お前は強い子だ。アクタ、どうかこれからも、ウツロのよき支柱となってくれ。お前がいてこそなのだ、アクタ。車輪と同じく、どちらが欠けても成り立たない。お前たちは、二人で一つだ」
「もったいないお言葉です、お師匠様……」
アクタは隠しているつもりだが、体が小刻みに震えている。
兄貴分として気を強く持とうと、普段から常々と振る舞ってはいるが、彼もウツロと同じ境遇には違いない。
思いの丈をぶつけたくなるときだってある。
それを察してくれる師の存在は、何ものにも代えがたい。
ウツロもアクタも、心は決意に変わっていた。
アクタはウツロを、ウツロはアクタを、絶対に守り抜く。
そしてお師匠様に、この偉大なる救い主に、絶対の忠誠を誓うと。
「うむ、よきかな。さあ、立ってくれ二人とも。今夜はうまい飯を手に入れてきたのだ。冷めないうちにいただこう」
「はい、お師匠様」
「ウツロのやつ、さっきから腹あ減ったってグーグーいわしてたんですよ、お師匠様」
「なっ、それはお前だろ、アクタ!」
「お師匠様、早くご馳走持ってこないかなあって言ってたくせに」
「アクタっ、虚偽の弁論をするな! お師匠様っ、反駁の機会を俺に!」
「ははは、本当に仲が良いなあ、お前たちは」
「良くないです!」
顔を膨らせてのにぎやかなやり取りに、似嵐鏡月は破顔が止まらないのであった。