万魔殿の切り立った一角にあるテラスで、アスタロト猊下はぼうっと遠くのほうを見つめていらっしゃいました。
何かをお考えのようですが、その目はステュクス河の水面か、あるいは氷獄の結晶のようにキラキラとしているのです。
金銀財宝をあしらった玉座に身を預け、ハヤブサの爪を揺らしながら、じいっとまどろんでいらっしゃいます。
浅黒い肌は沈まない夕日を映し出して、金色に眼の光るさまは、いかにもうるわしゅうございます。
カシャンと、エボニィの御角にはめ込んである角輪が音を立てました。
「ダミエル、ちょっとこっちへおいで。退屈だから何かお話をしよう」
首をかしげてそうおっしゃったのでございます。
お顔がずいぶんとやさしいですから、きっといまはご機嫌がよろしいのでしょう。
「はい、猊下」
僕がおそばに寄りますと、猊下はそっと手を差し出して、すりすりと頭を撫でてくださいました。
「さあ、こちらへ座って」
エデンに生えていた大木から切り出したテェブルに、猊下はそっと僕をいざないました。
「ふふっ」
僕が隣の椅子にひょいと座ると、猊下は組んだ手にほほを乗せて、ニコニコと笑いかけてくださいました。
「ねえ、ダミエル、あそこの空をご覧。たくさん灰塵が落ちてくるだろう? あれはいったい、なんだと思う?」
「地獄に落ちた人間たちでしょうか?」
僕がそう答えると、猊下はクスクスと笑って、手の甲を返されました。
「そうだね。冥府が混雑しているのだよ。ハデスのやつが見境もなく極刑を下すものだから、こうやって昼も夜もなく、まあ、ここにはそもそも、そんなものはないのだけれど、流星が見られるというわけさ。本当にきれいだよねえ。まるでここが宇宙の中心みたいだよ」
「裁かれる人間たちのなんと多いことでしょうね」
「ふむ。人間どもときたら、土くれから作られた分際で、愚にもつかないことばかりしおるからね。やつらは結局、みずからの神よりも金の子牛のほうが好きなのさ。みずからの手でみずからの存在を冒瀆していることに気づかない間抜けどもなのだ」
「なぜ人間は、みずからの手でみずからの存在を放棄するのでしょうか?」
「うむ、いい質問だね、ダミエル。人間というのはね、自分の近くにあるものほどよく見えないのだ。まなざしがくもっているのだね。逆にみずからの存在から遠いものほどよく映る。だから造物主よりもむしろ、われわれのほうを愛してくれるというわけさ。おかげでわれらは食いっぱぐれないがね」
「人間とはずいぶん、忘れっぽい生き物なのですね」
「ふむ、そうだ。やつらはすぐに忘れる。みずからが作られた存在であることも忘れ、むしろ作ろうとするのだ。なんという滑稽か。やつらはそう、神になりたいのだよ」
「なんというか、猊下のおっしゃるとおり分不相応、とてもあわれに映ります。われわれよりもよほど、罪深い存在ではありませんか」
「ははっ、よく言ったぞダミエル。そのとおりだ。人間どもが悪魔と呼ぶわれらよりよほどあれで罪深い、やつらという存在は。いと高き者が生み出したものの中で、およそ最低、最悪の存在だよ、人間は」
「なぜ超越者は、人間を土に戻してしまわないのでしょうか?」
「認めたくないからだ。自身が失敗作を作ってしまったということを。やつは本来、最高傑作のつもりで人間を生み出しただけにね。だからあんなできそこないどもの存在を許している。しかしまあ、それではさすがにメンツが立たないから、苦しまぎれに寿命という概念を作ったがね」
「人間も滑稽ですが、いと高き者こそ、正真正銘の道化に見えますね」
「ふふっ、ふははっ! ダミエル、最高だ! 君といると退屈しない! そうだ、そのとおりだ! やつこそ滑稽な道化だ! ひとりぼっちでダンスを踊っている、あわれなピエロなのだ! あはっ、ひひっ、ああ、おかしい……」
「猊下の憂さは晴れたご様子、なによりでございます」
「謙遜しなくていいよダミエル。君はしっかりわきまえているね。まったく、人間なんぞよりよほど上等だ。やつらも少しは君を見習うべきだよ」
「そのような猊下、おそれ多いことです」
「ははっ、いやいや。本当に君はよい子だねえ、ダミエル。ああ、たくさん笑ったら腹がすいてきた。君もおなかが減っているだろう? ニスロクを呼んで何か作らせよう。おっと、作るといっても、人間のようなできそこないではなくてね?」
「猊下のご表現は諧謔に富んでおりますね」
「ほめすぎだよ、ダミエル。でも、うれしいよ。これ、サルガタナス。すまないがニスロクに食事の用意を頼む」
こうして猊下はご機嫌よくあそばし、組んだ足でテンポを取りはじめたのでございます。
遠くの空からはあいかわらず、幾千幾万の流星が降り注いでおりました。